不整脈

2009年9月11日金曜日

 昨日、道の駅「どまんなかたぬま」におきまして、不整脈の講演を行いました.100名を超える大勢の方にご来場いただき、熱心に話を聞いて頂き、本当に有り難うございました.
CAST研究の話など一般の方々にお話しするのはどうかとも思いましたが、ある程度ご理解いただけたのではないかと思います.
 来週も、16日(水)、午後2時から4時まで、城北地区公民館で「健康と食事の話」という題で講演を行います.是非皆様のおいでをお待ちしております.
 下のファイル名をクリックして頂くと、スライドショーが再生されます.サイズが大きいため時間がかかりますが、じっと我慢して下さい.

荒野の決闘 1946年 ジョン・フォード監督

2009年7月11日土曜日

 怠けている間にブログの更新が随分間が空いてしまいました.
 先日、何を見るということはなくテレビをつけると、白黒の映画が目に留まりました.なんとヘンリー・フォンダではないですか.ビクター・マチュアが出てきて、なるほど、ワイアット・アープとドック・ホリデイか、OK牧場の決闘ねという訳です.
 ヘンリー・フォンダはただ立っていても、また片足で柱を押しながら椅子に座っている、ただそれだけでも姿が美しいですね.もともと私はこの人の歩く姿がとても格好がいいなと思っていました.この映画の中ではドック・ホリデイを追いかけて東部からやって来た女性、クレメンタインをエスコートして踊りの会場に歩いてゆくシーンの歩き方がやはり素晴らしいです.ワイアットアープの誠実で朴訥とした人柄にぴったりです.ヘンリー・フォンダのその他の映画での歩き方、例えば「怒りのぶどう」のトム・ジョードの一途な歩き方とも「12人の怒れる男」の陪審員8番の都会的で知的な歩き方とも全く違う歩き方で、名優は歩きひとつとってもその中で役柄を演じているということにびっくりします.続くダンスのシーンでも踊りの中でリズムに合わせて膝をひょいと高く上げるところが実にユーモラスで、愛すべき人柄が出ていたと思います.
 この後、殺された弟の犯人がクラントン一家であることが判り、OK牧場での決闘となります.このシーンも本来であればこうであろうという時間経過そのままに打ち合いが行われ、クラントン一家が死に、またドック・ホリデイがあっけなく死んでいきます.現在の映画であれば緊張を高めるためのバックグラウンドの効果音、音楽などが入るのでしょうが、この映画では実際の足音、銃声以外には一つもバックグラウンドの音楽、効果音などがなく、また、時間の引き延ばしがないため、緊迫感、スピード感、映画の密度は尋常ではありません.私はひっぱられるのが大嫌いです.映画「ダイハード2」で離陸のために滑走している飛行機の翼の上で10分も15分も主人公とテロリストが格闘しているのを見て、この滑走路は50kmくらいあるのかなと一人でしらけていたのですが、全くその反対といえます.
 決闘が終わり、最後にワイアットアープはクレメンタインに「私はクレメンタインという名前が好きです.」といって一人去っていくところに初めてバックグラウンドに「愛しのクレメンタイン」の音楽が重なってきて、エンドクレジット.
 久しぶりに西部劇を堪能しました.

おもしろ俳句

2009年5月19日火曜日

 先日、NHKで金子兜太が宗匠、いとうせいこうが司会で「日本ナンダコリャこれくしょん 今度は俳句だ!」という番組がありました.この番組に興味を覚えた方は多いようで、ネットにもいろいろな感想が見つかりますが.私も大変楽しく拝見しました.登場した句は大変面白いものばかりですので今後の記憶にとどめるため以下に記しました.一句一句が突飛ですが、よくよく読むとなかなか深い意味が隠されており、皆さんもきっと楽しめると思います.

 出演者
いとうせいこう, 金子 兜太, 假屋崎省吾, 高橋源一郎, 冨士眞奈美, 吉行 和子, 明川 哲也, 大宮エリー, なぎら健壱, 南海キャンディーズ, 箭内 道彦

一巡目
福助のお辞儀は永遠に雪が降る     鳥居真理子
唇は黒いマスクの下に惜しげもなくなくふる雪で必死の暮しも阻む冬はなほ更に思う 橋本夢道
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
足のうら洗へば白くなる  尾崎放哉
青蛙おのれもペンキぬりたてか  芥川龍之介
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
性格が八百屋お七でシクラメン  京極杞陽
粉屋が哭く山を駆けおりてきた俺に  金子兜太
法医學・櫻・暗黒・父・自瀆   寺山修司
夜のダ・カポ ダ・カポのダ・カポ 噴火のダ・カポ   高柳 重信

二巡目
とととととととととと脈アマリリス   中岡敏雄
ワタナベのジュースの素です雲の峰   三宅やよい
噴水や戦後の男指やさし  寺田京子
戦争が廊下の奥に立ってゐた  渡辺白泉
春は曙そろそろ帰ってくれないか  櫂美千子
まっすぐな道でさみしい  種田山頭火
鞦韆〔ブランコ〕は漕ぐべし愛は奪ふべし  三橋鷹女
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり   阿部完市
魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも  正木ゆう子
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など  鈴木しづ子

 如何でしょうか?皆さんの気に入った句があったでしょうか?
 ちなみに、今日は私の叔母の1周忌に当たります.叔母は埼玉の生まれで、俳人の金子兜太の姪になります.最近、テレビの俳句の番組で金子兜太の姿を見ることがますます多くなっています.金子兜太は90歳になっても、あるいは90歳だからこそ周囲に何の遠慮もなく、思うままに語れるのでしょうか?自分も早くそのような境地になりたいものだと思います.

Peter Catのこと

2009年2月24日火曜日

 私がちょうど研修医の頃だったでしょうか、ある日、友人のO君と信濃町の大学病院にほど近い千駄ヶ谷駅前のPeter Catという喫茶店に行ったことがあります.フロアには私たちだけだったでしょうか、ふとカウンターを見ると、カウンターの中に誰がいたと思いますか?その当時、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボールゲーム』で颯爽と文壇にデビューし、私のアイドルであった村上春樹氏その人でした.実はこの店のマスターだったのですね.私はサインを貰いたかったのですが、なかなか切り出せず、それを見かねたO君が代りにサインをねだってくれたところ、快く、店のコースターにサインをしてくれました.そのコースターは今でも大切にとってあります.
 その後、氏は次第にメジャーになっていき、それとともに次第に私の心の中から離れていきました.
 先日、氏がエルサレム賞を受賞したというニュースを聞いた時も、やっぱり村上春樹はメジャーですねという程度の感想でした.その後、氏がイスラエルに赴き、受賞式での記念講演の内容をインターネットで読むことができました.
 その内容は皆さんも既にお読みのことと思いますが、一口に言えば、世の中には高くて固い壁とそれにぶつかって壊れる卵がある、その時、自分は常に卵の味方である、またそちら側に立って小説を書くということを述べています.


壁   爆弾、戦車、ロケット弾(イスラエル)     システム
卵   非武装の市民(パレスチナ)          個人


という図式になります.
 官僚システム、経済システム、民主政治のシステムなどいろいろなシステムが当初の目的とは違った方向に一人歩きをし、かえって個人を不幸にするような方向に向かってしまう現実を思い合わせ、氏の発言におおいに共感を覚え、かつて氏がデビューした頃の小説に感じた共感を思い起こしました.
 システムは巨大になると自律性を持ち、勝手に一人歩きをし、システム内部の個人にも、外部の個人にもそれを止めることができなくなるようです.それを止めるための非常停止装置のような機能がシステムには必須のようです.巨大なシステムが大きな慣性で動き続けるのを止めるためには、システムに組み込まれている従来の危険回避の仕組み、いわばブレーキでは貧弱すぎるというのが現実なのではないでしょうか.もっと、強い、ある意味システムを破壊できるくらいに強い仕組みが必要なのかもしれません.

以下にそのスピーチの書き起こしを引用します。https://www.kakiokosi.com/share/culture/89

村上春樹氏の講演の内容をまだお読みになっていない方は、是非、ご一読を.

私は今日、作家として、言わばプロの嘘の紡ぎ手として、イスラエルまでやってきました。

もちろん、作家以外にも嘘をつく人種はいます。皆さんご存知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人も、場合によっては外交官の嘘、軍人の嘘をつきますし、中古車のセールスマンや肉屋や大工だって同じです。しかし、作家の嘘には他の人々の嘘とは違う点があります。作家は嘘をついたからといって不謹慎であると批判されることはありません。むしろ、嘘が大きくて巧みであればあるほど、そしてそれが独創的であるほど、人々や批評家から賞賛されるのです。何故でしょうか?

私の答えはこのようなものです。すなわち、巧みな嘘をつくこと、言い換えれば真実味のあるフィクションを構築することによって、作家は真実を別の場所に晒し、新しい光を当てることができるのです。ほとんどの場合、真実をそのままの形で把握し、正確に描写することは不可能です。だから、真実が潜んでいるところからおびき出して、フィクションの次元に移し、フィクションの形を与えることで、その尻尾を掴もうとするわけです。しかし、これを成し遂げるためには、まず、我々自身の中の真実がどこにあるのかをはっきりさせておかなければなりません。これは巧みな嘘を作り上げる上で重要な条件です。

しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。できるだけ正直になろうと思います。私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、今日はたまたまその一日だったということです。

というわけで、率直に言います。たいそうな数の人々からエルサレム賞を受け取るためにここに来るべきではないと忠告されました。中には、私がここに来たら私の本の不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。

理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。国連のレポートのよれば、1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。その多くは非武装の市民-老人や子供たちです。

賞についての話が出るたびに、私は自問しました。このような時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受賞することは適切なのだろうか?これが、紛争の一方の側に味方する印象を造らないだろうか?圧倒的な武力を解き放つ選択をするという政策を支持することにならないだろうか?もちろん、このような印象与えたいとは思いません。私はいかなる戦争も反対ですし、いかなる国も支持しません。また、同じように自分の著作がボイコットされるのも本意ではありません。

しかし、じっくり考えた末に、結局は来ることにしたのです。こう決心した理由の一つは、あまりにも多くの人に来るなといわれたことでした。恐らく、多くの作家がそうだと思いますが、私は他人に言われたことと反対のことをする傾向があるのです。もし人々に「行くな」とか「するな」と言われたら-特に、脅されたら-私は行きたくなるししたくなる。これは、私の、言うなれば、作家としての習性なのです。作家とは特異な人種です。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を完全に信用することができません。

だから私はここにいるのです。留まることよりもここに来ることを選びました。見ないことよりも自身の目で見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。

それは、私がここに政治的なメッセージを運んできたということではありません。物事の善悪を判断することは作家の最も重要な仕事であることはもちろんです。

しかし、そうした判断を他人にどのような形で伝達するかという決定は個々の作家にゆだねられています。私自身はそれを物語の形にーそれも、シュールな物語に変換するのを好みます。だから本日、皆さんの前に立っても政治的なメッセージを直接伝えようとは思わないのです。

が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。それは、私がフィクションを書くときに常に心がけていることです。(座右の銘として)紙に書いて壁に貼っておくという程度ではなく、私の魂の壁に刻み付けてあるものなのです。それは、こういうことです。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。

このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。爆撃機や戦車やロケット、白リン弾が高くて硬い壁です。それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。これがこのメタファーの一つの意味です。

しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は一つしかありません。それは、個々の魂の尊厳を浮き彫りにし、光を当てるためなのです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムが我々の魂をそのくもの糸の中に絡めとり、貶めるのを防ぐために、システムに常に目を光らせているように。私は、物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが作家の義務であることを信じて疑いません-生と死の物語、愛の物語、人々が涙し、恐怖に震え、腹を抱えて笑う物語を通じて。これこそが、我々が日々、大真面目にフィクションをでっち上げている理由なのです。

私の父は昨年90歳で亡くなりました。彼は引退した教師で、パートのお坊さんでした。大学院生の頃、父は陸軍に徴兵され中国の戦場に赴任しました。私は戦後に生まれた子供でしたが、父が毎朝朝食の前に、家の仏壇に向かって長い真摯な祈りを捧げる姿を見てきました。一度、父にその理由を尋ねたことがありました。父は、戦争で亡くなった人のために祈っているのだ、と答えました。 

亡くなった全ての人のために祈るのだ、と父は言いました。敵も味方も、全て。仏壇に向かって膝まづく父の背中を見ながら、父の周囲に死の影が漂っているような気がしたものです。

父は亡くなり、父と共に父の記憶も逝ってしまいました。父が記憶していたことを知るすべはありません。しかし、父の周囲に潜んでいた死の存在感は私の記憶の中に残っています。これは、父から受け継いだ数少ないものの一つで、最も重要なものの一つです。

私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです。

考えてみてください。我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります。システムは魂を持っていません。システムに我々を搾取させてはいけません。システムに生命を任せてはいけません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。

以上です。エルサレム賞の受賞に感謝します。私の本が世界の色々な場所で読んでいただけることに感謝します。今日、ここで皆さんにお話できる機会をいただき嬉しく思います。

私は今日、作家として、言わばプロの嘘の紡ぎ手として、イスラエルまでやってきました。

もちろん、作家以外にも嘘をつく人種はいます。皆さんご存知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人も、場合によっては外交官の嘘、軍人の嘘をつきますし、中古車のセールスマンや肉屋や大工だって同じです。しかし、作家の嘘には他の人々の嘘とは違う点があります。作家は嘘をついたからといって不謹慎であると批判されることはありません。むしろ、嘘が大きくて巧みであればあるほど、そしてそれが独創的であるほど、人々や批評家から賞賛されるのです。何故でしょうか?

私の答えはこのようなものです。すなわち、巧みな嘘をつくこと、言い換えれば真実味のあるフィクションを構築することによって、作家は真実を別の場所に晒し、新しい光を当てることができるのです。ほとんどの場合、真実をそのままの形で把握し、正確に描写することは不可能です。だから、真実が潜んでいるところからおびき出して、フィクションの次元に移し、フィクションの形を与えることで、その尻尾を掴もうとするわけです。しかし、これを成し遂げるためには、まず、我々自身の中の真実がどこにあるのかをはっきりさせておかなければなりません。これは巧みな嘘を作り上げる上で重要な条件です。

しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。できるだけ正直になろうと思います。私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、今日はたまたまその一日だったということです。

というわけで、率直に言います。たいそうな数の人々からエルサレム賞を受け取るためにここに来るべきではないと忠告されました。中には、私がここに来たら私の本の不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。

理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。国連のレポートのよれば、1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。その多くは非武装の市民-老人や子供たちです。

賞についての話が出るたびに、私は自問しました。このような時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受賞することは適切なのだろうか?これが、紛争の一方の側に味方する印象を造らないだろうか?圧倒的な武力を解き放つ選択をするという政策を支持することにならないだろうか?もちろん、このような印象与えたいとは思いません。私はいかなる戦争も反対ですし、いかなる国も支持しません。また、同じように自分の著作がボイコットされるのも本意ではありません。

しかし、じっくり考えた末に、結局は来ることにしたのです。こう決心した理由の一つは、あまりにも多くの人に来るなといわれたことでした。恐らく、多くの作家がそうだと思いますが、私は他人に言われたことと反対のことをする傾向があるのです。もし人々に「行くな」とか「するな」と言われたら-特に、脅されたら-私は行きたくなるししたくなる。これは、私の、言うなれば、作家としての習性なのです。作家とは特異な人種です。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を完全に信用することができません。

だから私はここにいるのです。留まることよりもここに来ることを選びました。見ないことよりも自身の目で見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。

それは、私がここに政治的なメッセージを運んできたということではありません。物事の善悪を判断することは作家の最も重要な仕事であることはもちろんです。

しかし、そうした判断を他人にどのような形で伝達するかという決定は個々の作家にゆだねられています。私自身はそれを物語の形にーそれも、シュールな物語に変換するのを好みます。だから本日、皆さんの前に立っても政治的なメッセージを直接伝えようとは思わないのです。

が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。それは、私がフィクションを書くときに常に心がけていることです。(座右の銘として)紙に書いて壁に貼っておくという程度ではなく、私の魂の壁に刻み付けてあるものなのです。それは、こういうことです。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。

このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。爆撃機や戦車やロケット、白リン弾が高くて硬い壁です。それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。これがこのメタファーの一つの意味です。

しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は一つしかありません。それは、個々の魂の尊厳を浮き彫りにし、光を当てるためなのです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムが我々の魂をそのくもの糸の中に絡めとり、貶めるのを防ぐために、システムに常に目を光らせているように。私は、物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが作家の義務であることを信じて疑いません-生と死の物語、愛の物語、人々が涙し、恐怖に震え、腹を抱えて笑う物語を通じて。これこそが、我々が日々、大真面目にフィクションをでっち上げている理由なのです。

私の父は昨年90歳で亡くなりました。彼は引退した教師で、パートのお坊さんでした。大学院生の頃、父は陸軍に徴兵され中国の戦場に赴任しました。私は戦後に生まれた子供でしたが、父が毎朝朝食の前に、家の仏壇に向かって長い真摯な祈りを捧げる姿を見てきました。一度、父にその理由を尋ねたことがありました。父は、戦争で亡くなった人のために祈っているのだ、と答えました。 

亡くなった全ての人のために祈るのだ、と父は言いました。敵も味方も、全て。仏壇に向かって膝まづく父の背中を見ながら、父の周囲に死の影が漂っているような気がしたものです。

父は亡くなり、父と共に父の記憶も逝ってしまいました。父が記憶していたことを知るすべはありません。しかし、父の周囲に潜んでいた死の存在感は私の記憶の中に残っています。これは、父から受け継いだ数少ないものの一つで、最も重要なものの一つです。

私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです。

考えてみてください。我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります。システムは魂を持っていません。システムに我々を搾取させてはいけません。システムに生命を任せてはいけません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。

以上です。エルサレム賞の受賞に感謝します。私の本が世界の色々な場所で読んでいただけることに感謝します。今日、ここで皆さんにお話できる機会をいただき嬉しく思います。

久々のQuartet

2009年1月24日土曜日

T先生ご夫妻、チェロのMさんと2年ぶりくらいになるでしょうか、久々にカルテットを楽しみました.
クリニックを作る際に、待合室は椅子を片付けて室内楽が楽しめるようにと計画したのですが、その初めての機会となりました.響き的には少し響き過ぎかとも思いましたが、ヴァイオリンを弾く上では余計な力を抜いて、純粋にきれいな音を出すことに集中できる感じがありました.
手始めはT先生ご持参の鈴木メソッドのカルテット曲集からということで、皆初見でしたが、ぴたりと合い、さすが、鈴木メソッドと皆の感想も一致しました.
いよいよ本題ということでモーツァルト初期の四重奏からと思いきや、ビオラのパート譜が見つからず、初期から中期へ飛んでハイドンセットからC dur(K.465)の1楽章の冒頭、曲名の由来となっている「不協和音」の部分を弾いてみました.各パートとも譜面としては難しくないのですが、4人で合わせるとなると結構作りが凝っていてかなり手こずりました.そういう訳で「不協和音」はその先の主要部には進まず、以前にも挑んだことのあるd mol(K.421)にチャレンジ. 前回は自分としては全く歯が立たなかった記憶がありますが、今回は1楽章の2回の山場の2オクターヴを駆け上がり、駆け下りる部分を除いて、ほぼ弾けた手応えを感じました.
その余勢を駆ってベートーベンの作品18の1番ト長調、3番ト長調、4番ハ短調と次々に挑み、かなりテンポを伸縮させてしまいましたが、なんとか最後までたどり着くことができました.
気分を変えて、久石譲の映画「Qaurtet」のための音楽であるStudent Quartet(モーツァルト的な弦楽四重奏)、Melody Road(となりのトトロ、花火、キッズリターンなど久石メロディーのメドレー)を楽しんでいるうちにあっという間に3時間以上が経過してしまいお開きとなりました.
次回は是非、「不協和音」を全曲通したいなと思いますし、できればラベル、フォーレも出来るところだけでもやりたいな、などなど、やはりカルテットは楽しいですね.
(尚、上の写真は私の妻が撮影しました.)

人類の足跡 10万年全史

2009年1月15日木曜日

人類の足跡 10万年全史 スティーヴン・オッペンハイマー著 仲村明子訳
株式会社 草思社 ISBN 978-4-7942-1625-0

数年前、皇位継承問題で女性天皇を認めるかどうかということが話題になりました.その際に、女性天皇を認めないという理由として、これまでの皇位継承は神武天皇以来のY染色体を保持してきたのであり、ここで女性天皇を認めることは、これまでのY染色体のつながりを断つことになるという意見が述べられたのを覚えている方もあるかもしれません.
Y染色体は父から男児へと男系で伝達され、同様に細胞小器官であるミトコンドリアの遺伝子は母から女児へと女系で引き継がれてゆきます.
従って、Y染色体を遡れば遥か祖先の父親へ、ミトコンドリアDNAを遡ってゆくと、遥か祖先の母親へと繋がっていくことになります.
本書は、人類が10万年前にアフリカ(現在のエチオピア付近)の1系統から始まり、10万年ほど前にアフリカを出て世界中に広がって行く様子を、現在まで得られたY染色体、ミトコンドリアDNAを用いた遺伝子工学的な研究結果に基づいて述べています.
私はこの本を読んで、人類が元はと言えば1つの系統からでているまさに兄弟、同胞であることを改めて認識し、また、人類が地球の気候変動、火山噴火など大自然の現象に翻弄されながら地球全体に広がり、本当に運良く現在まで生き延びてきたものだと思いました.
本書は読者に人間に対するいとおしさ、国際紛争、人種差別などの愚かさを強く感じさせてくれるものと思います.

ウィーンフィル ニューイヤーコンサート

2009年1月1日木曜日

明けましておめでとうございます.本年もよろしくお願い申し上げます.
新春恒例のニューイヤーコンサートを見ました.今年の指揮者はダニエル・バレンボイムでしたが、私が印象に残ったことが3つあります.
まず第一は、ハイドンの交響曲第45番「告別」の第4楽章が取り上げられたのが珍しく、面白かったですね.曲の終わりに向かって、オーケストラのメンバーが次々と立ち去っていくというアイデア、このような形で自分の雇い主のエステルハージ侯に楽団員の早く夏の離宮エステルハーザから本来のアイゼンシュタットの宮殿に戻り家族と一緒に暮らしたいという思いを伝えようとしたハイドンの機智と勇気、いずれからもハイドンが素晴らしい人間であったことを伺い知ることができると思います.
2番目は恒例の「美しく青きドナウ」で小さなバレリーナ、バレリーノたちがとてもかわいかったですね.コンサートで実際に彼らが目の前に現れたらびっくりしますよね.私の記憶では(毎年そう一生懸命見ている訳ではありませんので間違っているかもしれませんが)あまりこのような演出は覚えておりません.
3番目は団員一同の新年の挨拶の前に、バレンボイムが「2009年が平和の年でありますように、そして中東に人間の正義(human justice)がもたらされますように」と言った言葉です.バレンボイムはユダヤ系のイスラエル人ですが、イスラエル人ということを超えて、人間の良心に基づいてこのような場でパレスチナ問題に対して発言をすることに深い意義があると思いました.
暗いニュースばかりが多い毎日ですが、ここまで世の中の基本的なメカニズムがうまく働かなくなってくると、逆に、新たな仕組み、枠組みが出てくるチャンスは大きくなってくるのではないかと思います.明るい希望を持って、本年も過ごしてゆきたいと思います.

ラヴェル その素顔と音楽論

2008年12月14日日曜日

ラヴェル その素顔と音楽論 マニュエル・ロザンタール著 伊藤制子訳
株式会社 春秋社 ISBN 4-393-93144-0 C0073

この本は指揮者であり、ラヴェルの唯一の弟子に当たるマニュエル・ロザンタールが師モーリス・ラヴェルの素顔をごく間近から見て書かれた本です.
歴史上にはバッハ、モーツァルト、ベートーベンを始め、偉大な作曲家が数多くいますが、私にとって一番好きな作曲家はフランス近代の作曲家、モーリス・ラヴェルです.ラヴェルというとバレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲を最高傑作とすることが多く、また演奏される回数も多いと思います.ただ、私は何となくそのような評価に対して(特に最後の「全員の踊り」の場面の熱狂に対して)違和感を持っていました.ロザンタールはラヴェルの最も輝かしい才能を「優しさ」としています.私は「マ・メール・ロア」、「バイオリンソナタ」、「優雅で感傷的なワルツ」などをラヴェルの最上の作品と思っていましたが、なるほど「優しさ」という言葉でくくることがでるのかと気づかされました.
本書にはこの他にもラヴェルの大変好ましい人間性を示すエピソードが綴られており、読んでいて心が温かくなる本です.ラヴェル好きはもちろん、その他の方にも是非読んで頂きたい一冊だと思います.

ビッグ・ファーマ

2008年12月3日水曜日

ビッグ・ファーマ 製薬会社の真実
マーシャ エンジェル著 篠原出版新社 ISBN 4-88412-262-3

ビッグ・ファーマとはアメリカの巨大製薬企業のことをさしています.筆者は医学界で一番メジャーな雑誌であるNew England Journal of Medicineの元編集長.ここまで書いても大丈夫なの?と読んでいる方が心配になるくらい赤裸々にアメリカの巨大製薬会社の実態を暴いた本です.現在、一般の企業、業界では経済至上主義は当然のことですが、本書を読むと、医療がどのようにあるべきかということが本来の姿である医学界がむしろ経済の都合によって方向付けられるというような本末転倒の事態が起こっていることがわかります.また、製薬業界のうたい文句をそのまま信じるのはあまりに無邪気であることもよくわかると思います.日本の製薬業界の方はもちろん、医者も患者も必読の書といえます.

山川健次郎の生涯

2008年11月4日火曜日

明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯 白虎隊士から帝大総長へ
星亮一 筑摩書房 ISBN 978-4-480-42383-2

今年は、ノーベル賞を日本人4人(南部陽一郎氏は米国籍ですが、そうはいってもやはり日本人でしょう)が受賞し、暗いニュースの多い中、多くの日本人が元気をもらったことと思います.その中の一人、南部陽一郎氏の源流ともいえる、東京大学の物理学の開祖がこの山川健次郎です.とはいっても、この本は、物理学者としての山川健次郎を描くのではありません.山川は1歳若かったために白虎隊には入れず、それゆえ幕末を生き残こりました.しかし、会津藩の人々は賊軍として、薩長が牛耳る藩閥政治の明治時代にさまざまな苦難を受けます.山川はそのような状況の中で学者としての頂点である、東京帝国大学の総長を2回つとめることになるのです.本書では山川のみならず、会津の人々の幕末から明治にかけての苦難が描かれ、涙なくしては読めない本です.それゆえ、決して人前ではなく、そっと一人で読んで頂きたいと思います.山川のような人間に私は憧れ、またそうなりたいと思います.皆さんは如何でしょうか?

東大理学部小柴ホールの正面に山川健次郎氏の銅像があります。小柴ホールには小柴氏、梶田氏のノーベル賞の賞状とメダル(レプリカだとは思いますが。ちなみにノーベル財団から1人3個までメダルのレプリカが作ってもらえるそうですのでその中の1個なのでしょうか?)が見られます。